新鋭・ナリタジュンヤが描く感情と景色。ストリート・ライブを経て辿り着いた音楽家としての境地

インタビュー

『BIG UP!』を利用している注目アーティストをピックアップして紹介するインタビュー企画。第46回目はナリタジュンヤが登場。

愛知出身、現在は東京を拠点する新鋭SSW・ナリタジュンヤが新曲「Horizon」をリリースした。

風通しのいいシンプルなサウンドに、甘美なメロディ。しかし、同時にUKのエッセンスを感じさせる憂いや陰りを湛えた楽曲は、エバーグリーンな輝きを放つ強度の高いポップスとして注目を集めている。

今回はそんなナリタジュンヤをキャッチアップ。地元での活動で味わった挫折から東京で見た新たな景色まで、若き音楽家の足跡を辿りながら、今後の展望を語ってもらった。

ストリート・ライブで感じた“求められる”感覚

―ナリタジュンヤさんのルーツについてお聞きしたいです。まず、音楽に興味を持ったきっかけは?

一番最初の原体験は、TVで流れていた「ウォークマン」のCMです。当時、音楽にOasisの「Lyla」が起用されていて、Oasis自身も出演していたんです。たぶん、小学校5〜6年生の頃だったんですけど、すごくインパクトを受けて。しばらくはずっと鼻歌で歌っていました。

その年のクリスマス・プレゼントで「ウォークマン」を買ってもらおうと思ったんですけど、値段を理由にダメって言われて(笑)。代わりにポータブルのCDプレイヤーと、Oasisの『Stop the Clocks』、あと母の趣味でMaroon5の『Songs About Jane』のCDを買ってもらって。そこから自主的に音楽を聴くようになりました。

―その後どのように聴く音楽の幅を広げていったのでしょうか。

放送委員だった同級生が、学校でMaroon5などを流していて。話を聞くと、父親が作ったミックステープみたいなものを適当に流しているだけだったんです。僕が興味をもったことが彼の父親に伝わり、3枚くらいCDを貸してくれました。それがLinkin ParkとMy Chemical Romance、あとメタル系のバンドで。それまで、映画館すらも嫌いなくらい、うるさい音が苦手だったんですけど、すごく魅了されて。そこから自分はロックが好きなんだということがわかって、一気に音楽の趣味が広がりました。

高校生の時はPay money To my Pain、SiM、coldrain、ONE OK ROCKなど、メロコアやラウド系の音楽にハマって、ライブに行ってダイブをするような少年でした。同時に、友人から「絶対聴いた方がいい」って言われて貸してもらったフジファブリックの『TEENAGER』にも射抜かれて、そこから玉置浩二さんやはっぴぃえんどなど、日本語の文学的な歌詞で歌うバンドやアーティストさんにも惹かれるようになりました。

―では、楽器を手にする経緯は?

僕がCDプレイヤーを買ってもらったということが叔父に伝わり、酔っ払った勢いで「これあげるからギターやれ」って、アコースティックギターを買ってきてくれたんです。高校になってからは初めてのバイト代でエレキギターを買い、ELLEGARDENやGreen Day、Hi-STANDARDなど、パワーコード主体のメロコアをコピーしたり。バンドではメロコアやラウドな音楽をスタジオなどで演奏しつつ、家では日本のフォークなどを聴きながら、ひとりでアコギを爪弾いたりする生活を送っていて。高校卒業するちょっと前くらいから、自分のオリジナル楽曲も書くようになりました。

―高校卒業後は働きながらも、バンド活動をしていたそうですね。当時はどのような生活、そして活動を送っていたのでしょうか。

高校卒業後は工場に務めつつ、高校の時とほとんど同じメンバーでバンド活動していました。ただ、今後の人生を考えた時にこのままの未来じゃちょっと嫌だなと思ってしまって。工場を辞めてからは色々な仕事を転々としつつ、音楽は作り続けていました。
工場で鉄粉まみれになる生活の中でも、家でアコギを弾いたり、週末スタジオで音を鳴らすことで嫌なことが忘れられるというか。その時はプロを目指すとか、そういう目標はなく、完全にライフ・ワークという感じでしたね。

―なるほど。

工場を辞めて以降のモラトリアム期間を経て、親から「働きながらでも音楽は続けられるだろ」と言われたことをきっかけに再就職して、働きながら再びバンドを組みました。ライブハウスの店長さんなどから褒めてもらったりするうちに、「おれたち、イケるかも」というマインドになり。山奥の小屋にスタジオを作って、働きながらも365日中350日くらい活動していました。そんな生活が1年くらい続くと、メンバーも疲弊してきてしまって。「ちょっと付き合いきれないわ」っていう感じで解散してしまい。
そこから自分には何もなくなったんですけど、音楽を辞める気にはならなくて。諦めるなら、本当にやりきったと感じてからにしようと思い、上京を決めました。

―上京してからは音楽の学校に通いながらも、ひとりで行っていたストリート・ライブが大きな転機になったのだとか。

バンド・メンバーを探したりもしていたのですが、それと並行して、近くの商店街でストリート・ライブを始めました。そのうち、日本に留学に来ていたアジア系の学生グループが僕のことを気に入ってくれて。僕の演奏する傍らにたむろするようになって。それを見た近所の美容師さんたちがその輪に加わったり、多くの人が自分の音楽を中心に集まってくれた。その体験が大きくて。ライブハウスでノルマのために集客するのではなく、僕の音楽を必要としてくれて、自然に集まってきてくれる。この規模を大きくできればいいんじゃないかと思うようになりました。

―自身の音楽を必要とする、純粋な動機で集まってくれた人たちから大きなモノを得たと。

はい。他にも当時日本に滞在していたアメリカ人ラッパーと交流を持つようになったり、お婆ちゃんが巾着袋に入っていた小銭を全部投げ銭してくれたり。ストリート・ライブでは色々と濃い体験がありました。

「感情」と「景色」を2つの柱に

―上京後、聴く音楽は変化しましたか?

バンドを解散してからは、当時やっていたようなラウド系やエモなどはあまり聴けなくなりました。そのくらいのタイミングで、元OasisのLiam Gallagherがソロ・アルバム『As You Were』をリリースしたのですが、それがすごく刺さって。再度Oasisを聴き返したり、BlurやStereophonics、Radiohead、The Kooksなど、90〜2000年代くらいのUKのバンドに傾倒していきました。これは今の僕のスタイルの核にもなっている部分だと思います。

―すごく納得します。

あと、それと同タイミングで、僕にアコギを買い与えてくれた叔父が玉置さんのファンクラブに再加入したんですよ。それで玉置さんの東京公演がある時、僕を誘ってくれたんですけど、そのライブでめちゃくちゃ感動して。その時はフルオーケストラで、僕らは2列目で観ていたんですが、涙腺が崩壊するくらい涙が出ました。
玉置さんのような日本語の歌詞の美しさ、そしてUKの音楽に一貫として感じる物悲しさの中にも熱く燃えるような、青い炎のような感覚。それが今の自分を形成していると思います。

―昨年9月にリリースされた1stシングル「Close Your Eyes」にもそういった体験、影響が反映されていると。

あの曲も実は最初、日本語で作っていたんです。でも、歌っている内容的に、日本語だとどうしてもクサくなり過ぎてしまって。メロディ的にも英語の方がしっくりきたので、英詞にしました。

―「Close Your Eyes」から「I’m in Love with You」の発表まで、コロナ禍を経てちょうど1年経っています。この期間はどのような活動をされていましたか。

「I’m in Love with You」の制作は昨年から進めていて、年明けにリズム隊のレコーディングをして、リリースは4月くらいに考えていたのですが、コロナ禍で後ろ倒しになってしまいました。自粛期間中は、ずっと曲作りをしていて、メロディの断片などはすごい量が溜まっています。あと、本を読んだり自分の考えなどをまとめ直す期間になったと思います。

―「I’m in Love with You」も「Close Your Eyes」同様、ロマンチックな歌詞が印象的です。作詞はどのような事柄から影響を受け、どのようなプロセスでアウトプットしていますか。

歌詞に関しては、「感情」と「景色」を2つの柱にしていて、聴いている人に、何か景色や感情の機微を共有できるような作品にしたいと思っています。本を読みながら聴けない音楽ってあるじゃないですか。言葉が入ってき過ぎて、本の内容が頭に入らないというか。僕がやりたいのはそういった作品とは少し違って、具体的なメッセージを持つ言葉は英語にしたりして、バランスを取るようにしています。

作詞については、玉置さんと同じくらいフジファブリックからも影響もあって。(フジファブリックの)志村さんの作品のすごいなって思う部分は、聴いた人がみんな似たような景色を思い描いてしまうんじゃないかっていうところで。それはきっと、志村さんが作品に込めた情景の解像度、強度がめちゃくちゃ高いからだと思うんです。ちょっと系統は違いますが、Suchmosの音楽が茅ヶ崎の景色を喚起させたりするような、そういった表現を目指しています。

―そういった意味でいうと、UKの音楽に影響を受けている点、そして英詞の比率が多いことも作用していると思いますが、ナリタさんの音楽からはどこか欧米的な景色が浮かんでくるような気がします。ご自身はどういった景色や情景を思い描くことが多いですか。

僕の地元というのが、愛知県でも海寄りで、浜松とかに近いところなんです。そこには赤羽根ロングビーチというサーファーなら誰でも知っているような有名なビーチや、海沿いにヤシの木が植えられた道、アメリカンなハンバーガー屋さんやアイスクリーム屋さんがあって。大げさかもしれませんが、アメリカの西海岸的な景色のところで育ったので、それが作用しているのかもしれません。

―12月4日には3rdシングル「Horizon」がリリースされました。この楽曲は歌詞の大部分が日本語で、新鮮な印象を受けました。この曲はどのようにして生まれてきたのでしょうか。

2018年の夏に、地元の帰省する時に節約も兼ねて鈍行で帰ってみることにしたんです。大体4〜5時間くらいで着くんですけど、小説を読みながら電車に揺られて。静岡に差し掛かると一駅の区間が長くなって、途中からずっと海岸線を走るんですけど、夕方くらいの時間帯で同じ車両には僕以外誰もいなくて。その時に、「Horizon」のジャケにも描いたような、めちゃくちゃ綺麗な夕陽が目に入ってきて。車内が全部オレンジ色に染め上げられるような、その景色がすごく記憶に残ったんです。

その時、ちょうど上京して1年半くらい経っていた時で、徐々に焦りを感じ始めて、心の余裕がなくなっていたんですが、それの景色で心が一気に浄化されたというか。その圧倒的な美しさにもっていかれた感覚を音楽に昇華させたという形です。
元々日本語詞の曲も多く作っていたので、そこに関してはあまり意識していません。たまたまリリースの順番的にこうなっただけというか。

―レコーディングにはチェリストに伊藤修平さんを迎えています。これはどういった経緯なのでしょうか。

僕の作品をディレクションしてくれている世田谷RECスタジオのエンジニア、向啓介さんに紹介してもらいました。向さんがデモを聴いて、「これはもっと良くできる」って言ってくれて、色々と試してみたのですが、どうもしっくりこなくて。リリース日を遅らせてもいいからという感じで最終的にチェロを入れてみたら楽曲とマッチして、曲全体として包容力が出たんじゃないかと思います。

先人たちの轍を乗り越えて

―配信リリースしたことでの、現時点での反響はどのように感じていますか?

フィジカルと違い、配信リリースだとベテランも僕のような新人も同じような土俵に立てているような感覚があります。ストリーミング・サービスって、色々な作品が並列しているビュッフェのようなイメージ。僕の作品が聴きたければ、すぐに誰でもアクセスできる。それって、ある意味ストリート・ライブで僕の演奏を聴きに来てくれるのと同じような感覚な気もしていて。僕とリスナーがほぼダイレクトに繋がっているというか。

―オンラインで場を確保するという点について、配信ライブなどは考えていますか。

有料無料問わず、色々なアーティストさんの配信ライブも観ているのですが、僕個人としては、過去に体験してきた生のライブの感動とはやっぱり別物だと感じるんです。なので、ただライブを配信するのではなく、やるなら工夫が必要だなと考えています。

―作品としては、今後の方向性など見えてきていますか。

風景や情景を描くという点では玉置浩二さんやフジファブリックから影響を受けていると思うのですが、その一方で、聴く人の感情に寄り添うような表現という意味では、Pay money To my Painの作品をとても参考にしていて。特にライブで聴いて感じたイメージ、崩れそうな感情をギリギリのところで支えてくれているような、そんな作品も作りたいと思っています。もしかしたら、少し毛色が違うと思われるような作品も今後発表するかもしれません。

―では、大きい視野で、ミュージシャンとしての夢や目標といったものを設定するなら?

具体的な夢としては、映画の主題歌を書いてみたいと思っています。映画って監督や役者さんだけでなく、大勢の様々なスタッフと作り上げる芸術ですよね。本編で「あぁ、あとひと押しで泣いちゃいそう」っていうタイミングで暗転して、自分の曲がエンディングでかかり、観客が号泣する、みたいなことが実現したら夢が叶ったと思うのかなと。そういう形で自分の作品を残せたら最高ですよね。
あとは東京に出てきて、大きい小さいは関係なく、歴史ある会場だったり、僕が目標としているような方々が下積み時代に立ってきたステージを目にしたり、実際に立ったりしてみるとすごく感慨深くて。それをどんどん積み上げていって、規模も大きくなれば理想ですね。もちろん、ただ無条件で大きいステージで演奏したいということではなく、ストリート・ライブで感じたあの温かい空気のまま、そこに到達したい。自分を必要としてくれる人がいるからこそ、そのステージに立つ。そういったアーティストになることが自分の目標です。

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