未来を照らすポップ・ソングを。ソロ始動のKOIBUCHI MASAHIROが掲げる理想とは

インタビュー

『BIG UP!』を利用している注目アーティストをピックアップして紹介するインタビュー企画。第7回目はKOIBUCHI MASAHIROが登場

アルファベット表記の本名義でピンと来なくとも、MARQUEE BEACH CLUBと聞けば記憶を刺激される者も少なくないだろう。2017年に惜しまれつつも活動を休止した、マーキーのヴォーカル/コンポーザーのKOIBUCHI MASAHIROがソロ・プロジェクトで帰還した。変わらなかったのは踊れる音楽であるということ、変わったのはフレキシブルな発想を体現できる創作の場を得たということ。それにしても、2008年前後に盛隆したシンセポップのバンド勢、それらが持っていた煌めきに魅せられた彼が、今Beckの『Colors』をリファレンスとするのは必然だろうか。KOIBUCHI MASAHIROとは生来の未来志向なのだろう。少年期からマーキー時代、そして現在のソロ活動まで、彼の音楽クロニクルをじっくりと語ってもらった。どうやらインタヴューを受けるのも約2年ぶりとのこと。ウェルカムバック!

音楽に目覚めた少年期からMARQUEE BEACH CLUB結成前夜

ー一番最初の音楽に関する記憶は何ですか。

幼少期の頃からピアノを習い始めたので、音楽に触れた最初の記憶はピアノですね。ただ、熱心に音楽活動みたいなものを始めたのは、小学5年生の頃でした。当時『ハモネプ(ハモネプリーグ)』っていうアカペラ選手権の番組があって、それを見て僕もやりたいと思って、同級生と一緒にアカペラを始めたんです。その頃から自分達が歌っているものを録りたいと思うようになりました。

ーそれが今の活動の原体験だ。

そうですね。カセットレコーダーをみんなで買って、毎日夜に公園とかで録っていたところから、僕の音楽生活みたいなものが始まった気がします。各パートをみんなで考えていって、ハモリをどうするかとか、ヴォイス・パーカッションの人もいるのでリズムはどうするかと考えたり。あの頃からもの作りの楽しさっていうのを感じていたんですね。

ーでは、音楽性の部分でご自身のルーツになっているものはなんだと思いますか。

親がドラマが好きだったので、幼稚園から小学校くらいまで親と一緒にドラマを見ていて、そこで主題歌として流れるJ-POPをいっぱい聴いていました。その流れからアカペラにいったので、ずっとJ-POPを通ってきたと思います。自分では全然覚えていないんですけど、小さい時に家で留守番をしていて、親が帰ってきたらオーディオの前でヘッドフォンして米米CLUBを延々聴いていたらしいです(笑)。

ーあはははは。

あと、ルーツと言えばThe Beatlesですね。小学生の時に書道の先生がライヴ映像を見せてくれて、そこでThe Beatlesに感銘を受けてすぐにCDを買いにいきました。僕にとって、初めて自分で欲しいと思って買ったCDがそれでした。

ーそれはいつ頃のことですか?

それも小学校5年生ぐらいのことですね。

ーじゃあ、その頃いろいろ目覚めた感じがありますね。

本当にそうですね。

ーバンドを始めたのはいつ頃ですか?

自分の住んでいる地区がバンドの盛んなところで、中学校の音楽の授業でバンドをやる授業があったんですよ。

ー羨ましいです(笑)。

なので、そこで初めてベースを弾いたのを覚えています。中学校の頃はやっぱりヴォーカルが一番モテるから、その当時は歌いたいっていう子はいっぱいいて(笑)。僕はバンドができるならなんでもよかったから、空いていたベースをやった感じなんですけど。それもアカペラをやっていたグループで組んだので、やっぱり自分達で曲を作りたいよねって話になって。曲を作って文化祭でやったりしていました。

ー小学生の頃から、ずっと音楽が途切れたことはなさそうですね。

音楽しかやってこなかったっていう感じですね。大学に進学する時も、バンドをとにかくやりたかったから、早く受験終わらせたいみたいなことを考えて動いていました(笑)。

ー大学の頃はオリジナルのバンドをやっていたんですか?

やっていました。洋楽のサウンドに日本語のメロが乗るみたいなバンドで、それも活発に動いていましたね。学生の大会みたいなものがあって、そこで優勝して日比谷の野音に出させてもらったんです。

ーいきなり大きいところですね…!

でも、ちょうど社会に出るタイミングだったので、その頃にバンドが止まってしまうことになったんです。僕としては大きい会場でやったことで、もっと音楽をやりたい、もっといろんな人に聴いてもらいたいっていう気持ちが芽生えていたので、それで社会人になってマーキーを作ったという感じです。

バンド躍進の裏で抱えた戸惑い

ー大学時代のバンドがサウンド的には洋楽的なものを志向していたとのことですが、それはマーキーでも今のソロ作にも共通して言えますよね。The Beatlesを除くとJ-POPをずっと聴いてきたんだと思いますが、KOIBUCHIさんは海外の音楽にはどういうところから接していったんですか。

Two Door(Two Door Cinema Club)が出てきた頃かなあ。18か19の頃に、洋楽をがっつり聴くようになっていったんですよね。それが2008年くらいなんですけど、その頃海外盤が凄く安かったんですよ。

ー1000円くらいで買えていましたもんね。

そうなんです。だから死ぬほど買っていって。

ーどんなアーティストにはまっていきましたか。

2008年前後にデビューしたバンドがたくさんいて、それらをよく聴いていました。その頃聴いたバンドの煌めきとか、音に対するロマンチックな感じが、大学生の時に感銘を受けたんです。

ーじゃあきっと、Passion PitとかFoster the Peopleとか?

そう、それとFoalsとかFriendly Firesとかですね。あの頃の海外のバンドにあった、ロックとエレクトロが混ざる感じに惹かれて、自分もそういうものが作りたいなって思いました。なんで今まで聴いてこなかったんだろうとすら思って、J-POPばっかり聴いてきた僕の芯に触れた感じがありましたね。

ーそこで受けた衝撃は自分の音楽にどういう影響を及ぼしていきましたか。

今挙げたようなバンドの音を聴いていると、自分達の好きなことを素直にやっている感じがして、自分もそういう音楽をやりたいなって思いました。なので、そこで自分を培ってくれたJ-POPのメロディっていうものと、リアルタイムでときめいている海外のサウンドが出会うんですよね。そのブレンド具合は、今でもずっと変わらない柱になっていると思います。

ーなるほど。

それで洋楽アーティストのコピーをいっぱいDTMでやるようになって。パソコンで海外のバンドの手法を勉強していました。

ーじゃあシンセを使い始めたのもその頃ですか?

シンセを導入したのが2010年くらいですね。僕が大学に入った頃って、どうしても日本ではギターロックの空気感が世の中にあったし、僕もいきなり宅録をする技術もなかったので、自分もギターロックのようなバンドをやっていたんですけど。でも、始めてみたらのめり込んじゃって、それこそギター弾かなくなっちゃうくらいシンセをやっていました。

ーそして、卒業後にMARQUEE BEACH CLUBを結成したということですね。

はい。

ーあのバンドはメディアや早耳のリスナーからの評価は高かったと思うし、しっかりアルバムのリリースもしていました。率直にお聞きしますが、何故あのタイミングで1回足を止めたんですか。

バンドが躍進していく中で、メンバー間の音楽に対する思いみたいなところに凄く差が出てきてしまったんですね。忙し過ぎて自分達の時間をもてなくなってきていましたし、それまでの生活とのギャップについていけなくなってしまったんです。なので、本当に音楽が好きで集まった6人だったのに、音楽の話もだんだんなくなってしまって。みんなやる気はあったんですけど、微妙な差がどうしても埋められないっていう時間を過ごしていて…それで各々で1回自分達の音楽とはなんなのか、自分達の生活とはどういうものなのかっていうことを見直そうと思いました。

ーつまり、地に足ついたやり方を目指したかった?

そう、まさしくそういうことですね。元々は一歩ずつ上がっていきたいっていう気持ちでマーキーを始めていたし、CDの出し方に関しても、その時の気持ちを丁寧に閉じ込めるようにパッケージングしていこうと思っていて、それを今度こそっていう気持ちでした。だからもしかしたら、そういう地に足ついていないところも楽しめるような人達だったらよかったのかもしれないんですけど。どうしても僕らはみんな頑固だったから(笑)。各々のやりたい音楽を1回やって、いつかまた戻れる時に戻ったほうがいいかなって決断しました。

ー休止からソロ名義でのリリースまで、2年ほど空いています。きっとその間に自分自身を見つめるような作業があったと思うのですが、そこではどういう発見がありましたか。

やっぱり自分がなんで音楽をやっているのかっていうことを考えたんです。で、そこで改めて思ったのが……自分の思っていることを人と共有しながら曲を作って、誰かに聴いてもらうことで、その曲がその人のものになる。そして、それによって聴いてくれた人が前に進めるっていう、そういう体験をマーキーの時にしていたんだなって再確認できて。僕はそういうことをずっとやっていきたい人なんだなって改めて思いました。家でひとりで曲を作るっていうのも好きなんですけど、じゃあその曲はなんのためにあるんだろうって思うと、やっぱり誰かに喜んでもらったり、誰かの一歩になるものにしたいって思うから。今はそういう音楽を残していけたらなって気持ちが強いです。

未来へと踏み出す歌を

ーそれでできあがったのが1月に発表した『HOUSEWORK』?

そうです。訳したら『家事』っていう意味になりますけど、まさに生活の部分を大事にして作った作品になりました。あと、ソロ作ではバンドの時よりも自由さみたいなものが出ていると思います。

ーというのは?

マーキーをやっていた時は、曲を作った後に「マーキーなのかどうなのか」っていう判断基準を自分の中で凄く持つようになってしまって。それに縛られて曲を作っていたので、そうなると意図しないボツ曲とかも凄く増えていくんですよね。そうやって日の目を見なかったデモ曲がいっぱいあったので、ソロではそれらを形にしてあげる作業っていうのが多いです。新しい曲ももちろん作りつつ、当時使わなかった案を組み直して作っているというか、今まで使えなかった禁じ手が使えるようになった感覚があります。

ー具体的にどういう部分でそれを感じますか。

わかりやすいのは、フィーチャリングですかね(「1989 feat. KIDOPOOH(from BEAST WARS)」という楽曲で、地元のヒップホップクルーのMCが参加)。マーキーはヴォーカルがふたりいるということが味だったので、新しいアーティストが歌いに来ることはまずなくて。

ーああ、なるほど。

だけど当時は海外のサンプリング文化が凄くいいなと思っていたし、フューチャリング文化もマーキーの後期の頃くらいから多くなってきてたから、自分もやってみたいなって思ってたんです。

ーでは逆に、マーキーとして出していい曲なのかどうかっていう線引きは、どういうところにありましたか。

どこか明る過ぎちゃいけない、みたいなところがありました。シンガーソングライターのシマダアスカがそういう儚さや切なさといった世界観を持っていたので、そこのジャッジはシビアに考えていましたね。もっと正確に言うと、彼女が明るい曲を歌っちゃいけないかっていうことではなくて、ふたりが歌える間のラインっていうのが決まっていたというか。僕らがふたりで歌う時にハマる場所っていうのを凄く考えて、そこに入らないものが外れていっていました。

ー確かに。バンドのほうは影がありましたよね。

そう。なのでソロでは、どちらかと言うとハッピーな方に寄っていると思います。

ーひとりになった時に、楽曲に多幸感みたいなものが出てきたのはなんでだと思いますか。

マーキーが止まったことに対する反動みたいなものもあると思います。バンドが止まってしまったことでの悲しさがあったし、聴いてくれていたお客さんもがっかりさせてしまったから。そこを全部連れて行きたいっていう気持ちで作っていました。お客さんのことも、止まってしまった過去も、全部明るい未来に連れて行きたいっていう気持ちがソロのサウンドに反映されていると思います。だから歌詞も<明るい未来に連れていきたい>って歌っているんですね。

ー僕はこれまでよりも遊び心のようなものも感じました。

あ、そうなんです。それは大事にしています。カッコ良いかカッコ悪いかではないところで評価される音楽を目指していると言いますか、遊び心が先行していけば、ダサさすらもカッコいいって思われるような作品になるのかなって思います。それで“1989~”でもサウンドは絶妙なところを狙っていて。仕上がりをある一方へ寄り過ぎちゃうと、その方向の音楽を聴く人だけに届いちゃう気がしていたから、いろんな人に届くようにするためにいろんな要素が必要だと思ったんです。それでカッコ良くもありダサくもあり、なおかつ可愛くもあるっていうものを作ろうとして、こういう楽曲になったと思います。

ー作品全体で言えば、Beckの『Colors』やPhoenixの『Ti Amo』に通ずるものを感じました。

まさしくその2枚を今回よく聴いていました(笑)。特にBeckの『Colors』はかなり聴いていて、音の質感はあの感じを目指していましたね。『Colors』はヒップホップもあればロックもあって、エレクトロの部分もあるし、すべてがあるアルバムだと思います。いい意味で丁度いいアルバムって言うか、その感じを僕も出したくて。あればかり聴いていたかなぁ。

ーどういうところにシンパシーを感じていましたか。

歌が中心にありながら、ちゃんとサウンド面で遊んでいるところがいいですよね。それこそ遊び心みたいなものを感じていたし、曲も幅が効いているというか、いろんなものにチャレンジしているから。だって、前回のグラミー賞を取ったアルバム(『Morning Phase』)から新作で豹変したわけじゃないですか。そのソロ・アーティストとして変貌していく姿、彼の進化みたいなものを自分もこれから体現していきたいなと思って、その姿勢に今の自分の気持ちにフィットしました。

ー『Colors』のリリース当時はもちろん、今もアメリカは相当暗い時代を迎えていると思います。でも、あのアルバムはベック史上最もポップなメロディと凄くブライトな音色で作られていて、何かを照らすエネルギーを持った作品だったなと。

うん。僕もそう思います。だから時代に対して明るいものを見たいっていう、そういう自分の気持ちもマッチしたんだと思います。僕はあのサウンドを聴いた時に「未来は明るいんだ」って気持ちが一瞬で浮かんだし、そこに音楽の強さを感じたから。僕も自分の音楽でそういうことを表現していきたいです。サウンドも歌詞も、世の中を見つめた上で未来を見据えたものを作っていきたいです。

ーソロ活動が始まり、今はヴィジョンがしっかり定まった感じがしますね。

そうですね。商品になるような音楽ではなくて、作品として愛してもらえるような曲を作りたい。そして、これからはその音楽をより大切に届けられるような活動をしていきたいです。地に足つけてひとつずつお客さんに届けるような気持ちで、活動の幅を広げていけたらいいなって思います。

Presented by.DIGLE MAGAZINE